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 『兎の眼』出版以前、灰谷健次郎(1934〜)は小説を書く傍ら、神戸市の小学校教員として、児童詩教育、作文教育、造型教育を実践。児童詩雑誌『きりん』に学級文集が掲載され、1965年には『せんせいけらいになれ』(理論社)を出版していた。ところが、長兄の自死、差別小説執筆による糾弾、学校教育への絶望が重なり、自分を責めて17年間勤めた教員生活を離れ、放浪生活に入る。沖縄放浪中に言葉で生きる決意をし「子どものところへ帰ろう」と執筆したのが、児童文学のデビュー作『兎の眼』であった。灰谷自身が代表作と自認する作品である。
 『兎の眼』は、児童文学作品としては異例の多くの読者を獲得、灰谷の名を一躍有名にした。精力的なキャンペーンもあってミリオンセラーとなった。1978年10月には、判型を四六判に、挿絵をなくし活字を小さくした一般向けの文芸書版が出版され、1984年には新潮文庫に入り、幅広く読み継がれることになる。なお、1998年の角川文庫への移行は、神戸で起こった少年事件の加害者の顔写真を、新潮社の雑誌が掲載したことへの抗議から新潮社から作品を引き揚げる処置の一環としてなされたものだった。続く『太陽の子』(理論社、1978)とともに、青年層を中心とした大人の読者からの支持に支えられ灰谷ブームがおこり、世間の児童文学に対する関心を高めることになった。
 物語の舞台は、工業地帯の中にある小学校。地域でも学校でも差別されている塵芥処理場に住む子どもたち、その1人でハエ博士と呼ばれている1年生の鉄三と、新米教師の小谷先生、子どもたちに慕われる熱血教師の足立先生との交流を中心に物語は進む。ある日、小谷先生のクラスの言葉を発せず周囲に理解されていない鉄三が、同級生に怪我をさせてしまう。小谷先生は、その原因を鉄三からではなく、彼と同じ塵芥処理場の長屋に住む子どもたちから聞く。理由を知った小谷先生は、足立先生に励まされ鉄三と一緒にハエの研究を始める。子どもたちや教師、親たちとの関わりのなかで、差別的な学校や社会のありようを体験し、小谷先生は教師としても人間としても成長していき、鉄三も先生に心を開く。そのような時に、塵芥処理場の移転騒ぎが持ち上がる。移転すれば、塵芥処理場の子どもたちは転校しなければならない。騒ぎは学校や保護者を巻き込み、足立先生の体を張った移転反対運動に発展する。
 異なった個性をもつ子ども像を豊かに描きだすとともに、悩み苦しみながら、子どもと関わることに喜びを感じ、真剣に向き合う教師像や固定観念から抜け出せない大人たちの姿を、鮮烈に描きだした。また、徹底して社会的弱者の側に立ち、権力側に抵抗し告発する姿勢は、後の『太陽の子』にも一貫してつながっていく灰谷文学の特色である。
 一方で、灰谷文学の魅力を十分に認めた上で、作中で描かれる「良心」が本当に人間を解放し、時代を超えることができるのかという、清水真砂子の批判(『子どもの本の現在』1984)もある。また長谷川潮は、灰谷文学のキーワードを「やさしさ」としたうえで、行動を促す斎藤隆介の「やさしさ」と比較して、灰谷の「やさしさ」は理解を促すものだとしている。長谷川も、高史明の「やさしさ」に通じる灰谷の「やさしさ」を評価しつつ、その子ども観に新童心主義と呼ぶべきものがあると指摘している(『戦後児童文学の50年』1996)。
 1975年、日本児童文学者協会新人賞を受賞。1978年、国際児童年にあたり国際アンデルセン賞特別優良作品となる。1979年3月、『兎の眼』『太陽の子』などの作家活動に対して第1回山本有三記念路傍の石文学賞を受賞。また、1988年には韓国語版が出版された。
 映像化もなされ、1976年、NHK少年ドラマシリーズとしてテレビ放映(10月26日〜11月18日、毎週月〜木曜日の20分番組)、1979年には、中山節夫監督、壇ふみ主演で映画化された。

[解題・書誌作成担当] 畠山兆子