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 太平洋戦争末期の1946年3月10日未明、東京の下町一帯がアメリカ軍の空襲をうけ、約10万人が死亡する。この東京大空襲は、戦中は日本国家の、戦後は占領軍の報道統制によって封印されてきたが、12歳でこの空襲を体験した早乙女勝元(1932〜)は、1950年、第一作『下町の太陽』でこのことを描く。本作もその流れの中で生まれた。
 国民学校の卒業を間近に控えた杉夫は、3月10日未明の空襲で逃げ後れてしまう。おりからの突風で火のまわりは早い。杉夫と両親、同級生の町子と町子の母親の5人はひとかたまりになって必死に逃げるが、途中で町子の母親がはぐれてしまい、その母親を捜しに杉夫の父親は来た道を戻る。残った3人は川にたどり着き、流れてきたボードに飛び乗って難を逃れる。翌朝、同じ長屋の陽介さんらと出会い、家のあった場所に戻ると、杉夫の父親が先に戻っていた。しかし町子の母親は行方がわからないままだ。焼け跡で暮らし始めたある日、上空から振ってきた鉄板に当たって町子が死ぬ。町子の遺体を荼毘に付していたさなかに敵機が飛来、今度は杉夫の父親が被弾して死ぬ。そして敗戦。杉夫は「この手の中の平和をはなすもんかと思う。」
 初出は『たのしい六年生』(講談社)で原題は「火のひとみ」、挿絵は武部本一郎であった。初版と初出の間に筋の大きな違いはないが、初版出版にあたって大幅に加筆され、描写、説明がより細かくなっている。また「町子」「陽介」は、初出ではそれぞれ「光江」「横島」である。さらに初出では挿絵の比重が高くなっている。武部の挿絵は写実的であり、読者を、挿絵からも物語に引き入れていこうという編集側の意図が感じられる。その点では、初版で挿絵を担当した鈴木義治の挿絵よりもインパクトは強い。
 本作品が発表されると、空襲を正面から取り上げた点や、戦争の悲惨さを伝えようという作者の思いが高く評価された。その一方で、「みずからの体験や実感に極度によりかかって作品を創造する」(笠原良郎、1965)方法が、果たして戦争を全く知らない子どもの読者に有効なのだろうかという、戦争児童文学全体にも共通する疑問が児童文学の関係者から提出された。
 児童文学創作シリーズという叢書名、鈴木義治の表紙(防空頭巾の少年)のもの(初版1969.6)が一般には出回った。のちに『早乙女勝元小説選集』(理論社、1977)の第6巻に収録されたが、この時は久米宏一が挿絵を担当している。また『愛といのちの記録 早乙女勝元自選集』(草の根出版会、1991)の第2巻にも収録されたが、こちらでは、初版を「再構成し、改作」している。

[解題・書誌作成担当] 相川美恵子