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 井伏鱒二(1895〜1993)の『シビレ池のかも』は、「梟文庫10」として1948年小山書店から出版された。小山書店の創業者、小山久二郎は岩波書店で出版業を学び、随筆や文芸書を意欲的に出版、伊藤聖訳『チャタレー夫人の恋人』の出版元として「チャタレー裁判」で有名になった。良心的な出版を心がけ、児童書では、下村湖人『次郎物語』や本書を含む梟文庫全20冊には、宮澤賢治、鈴木三重吉、志賀直哉、川端康成等の作品が収録されている。
 「シビレ池のかも」の初出は、1948年5月11日から9月21日まで108回にわたって、「シビレ池の鴨」の表題で『毎日小学生新聞』に掲載されたものである。単行本出版時に、宇三郎じいさんの留守番の部分と狸狩りの部分に、具体的には第45回分は全面削除、第61回から第67回は大部分の削除と書き換えがなされた。
 1957年10月、岩波少年文庫149『山椒魚 しびれ池のカモ』に再収録。そこには1950年より岩波少年文庫の編集に携わっていた石井桃子の関与が考えられるが、詳細は不明。この時題名が「しびれ池のカモ」に変更された。同作品のほか「オコマさん」「山椒魚」「屋根の上のサワン」が収録されている。出版に際して書かれた「あとがき」に、「しびれ池のカモ」と「オコマさん」への言及がある。「オコマさん」は、1940年1月号から6月号の『少女の友』に連載された作品に加筆したもので、「童話でなくて少女小説ですが、童話を読む年頃の読者を対象にして書いたのですから、ついでに収録してみました。」と述べ、「しびれ池のカモ」を童話、19歳のバスの車掌を主人公にした「オコマさん」を少女小説と呼んでいる。反響はほとんどなかったようだ。
 「シビレ池のかも」は、剥製つくりの名人、医者の戸田老先生が作った出来損ないで、性質のわるい剥製のカモに、生きたカモが、騙され振り回される物語である。老先生と弟子で浮浪児だった三五郎、しびれ池の湖畔の住人、鳥のサーカス団長が、鴨が驚いて逃げださないようにしておこうと知恵を絞るが、結果はますます悪くなる。「あとがき」で作者は、「この童話のなかの「剥製のカモ」は、むろん、戦争中の指導者を漫画化した存在のつもりですが、同時に、戦後の其筋の人を寓意するつもりもありました。しかし、それが風刺にまで発酵せず、説明の程度に流れてしまったように思います。」と述べている。また、しびれ池を空想上の池としたうえで、池の姿、周囲の情景は「すべて三宅島のシンミョ池という火口湖をモデルに取りました。」(同上)と述べている。
 井伏鱒二は、太平洋戦争前夜から敗戦までの間、作家としてめぼしい作品を書いていない「空白の数年間」をもつ。その間彼が取り組んだのが、ドリトル先生シリーズの翻訳であった。第1巻『ドリトル先生「アフリカ行き」』(白林少年館)が出版されたのは、1941年である。井伏がドリトル先生シリーズの原作を知ったのは、「子どもの読み物までが国粋調になっていくことを、ひどく苦に病んで、本等に子どものためになる読み物を出す出版社を計画していた、石井(桃子)さんに勧められてだった。」(福井隆義「井伏と児童文学」『文学と教育』1985春)という1940年のことである。それは少女小説を執筆していた井伏鱒二が、児童文学への関わりを深める時期にあたる。今日、ロフティングの原作には問題が指摘されているが、井伏の翻訳が、日本語としてこなれた名訳であることは広く知られている。福井隆義は、翻訳の仕事を「徹底した対話による言葉選び―言葉の芸術の訓練・修練がなされていたといえないだろうか」(同上)としている。当然それは、児童文学作品のあり方を考え、習得する時期でもあったはずである。
 『シビレ池のかも』は、ドリトル先生シリーズの仕事で、児童文学への認識が深まった後に執筆された児童文学作品である。登場人物に、鳥を愛する医者の戸田老先生やカモの言葉がわかる弁三じいさんが登場するのも興味深い。また、「対話精神」の井伏文学だけあって、対話の生きた作品になっている。しかし、戦後の児童文学が、『シビレ池のかも』が描こうとした主題はともかくとして、その表現手法を、正当に評価し、継承してきたかは疑問である。

[解題・書誌作成担当] 畠山兆子