函と表紙 本文 挿絵

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 松田瓊子(1916〜1940)のデビュー作であり、生前刊行の唯一の本で新しい少女小説のあり方を示した作品。
 瓊子は15歳の頃より「お人形の歌」といった短編童話を書き始めた。「銭形平次」の原作者で知られる野村胡堂は、彼女の父であるが、その胡堂が瓊子の「七つの蕾」の原話である「つぼみ・つぼみ」を妹や親戚の少女たちが喜んで読むのをみて、どんな作品かを試みに読んでみた所、その筆力に驚き、親交のあった村岡花子と相談し、出版にこぎつけた。本書に村岡が瓊子への激励の手紙形式の序文を寄せているのもこの辺りの事情によるものであろう。
 初版(所見のものは本文に落丁がある)の出た1937年は瓊子21歳、結婚前だったため、野村瓊子として出版、サイズも少し小さめでモスグリーンの地に円の縁取りの中に少女の絵の貼り絵であった。2年後の12月松田智雄と結婚し、その姓にあわせて重版される際、表紙が変更されたと考えられる。その折に函つきのものになったのであろう。絵は、瓊子の4歳下の実妹・野村稔子で、函絵・表紙・2枚の挿絵とも当時十代であった素人の少女の絵とは思えないほどの描写力のある絵である。著者は小さい頃から病弱、1939年23歳で夭折。上笙一郎によると本書は1940年末で20版を数えたとある(『松田瓊子全集(1)』1997)。
 内容は梢と黎子という二人の少女の生活を軸におきながら、西洋風な少女小説の系統を引いている。瓊子はスピリ、オルコット、バーネットを熟読したというだけあり、本作品にも「ハイジ」「若草物語」に関連した名付けや描写を見ることができる。また、末尾の約20ページにわたる付録は、物語の登場人物3人が発行した雑誌の形式をとっていて物語形式として新しい。 
 没後、夫や父の愛情により、甲鳥書林から『紫苑の園』(1941)『小さき碧』(1941)『サフランの歌』(1942)を遺稿本として出版された。これらがヒマワリ社の中原淳一の目にとまった。そこで『七つの蕾』は彼の装幀でヒマワリ社から1949年に出版、中原の抒情画も加味して人気となる。このヒマワリ社版が1985年国書刊行会より復刻された。

[解題・書誌作成担当] 森井弘子