函と表紙 本文 挿絵

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 与田凖一(1905〜1997)の最初の詩集である。「覚えがき」(後記)には「本集は<赤い鳥>で選出された三十九篇の中の二十篇、<近代風景>九篇の中の八篇、<コドモノクニ>十一篇の中の八篇、<チチノキ>三十三篇の中の十八篇、その他に発表したものから二十篇、未発表の作七篇、大正十四年から始まつて昭和六年末までの作を集めて、計八十一篇をもつて一巻とした。」と書かれてあり、さらに個々の作品について、その執筆時期および初出誌を記してある。それによると、『赤い鳥』など上記4誌のほかに雑誌10誌が初出誌として挙げられ、ほかに単行本2点も初出として挙げられている。
 与田凖一は巽聖歌、藤井樹郎、多胡羊歯などと同様に、『赤い鳥』を母体に童謡の創作活動をはじめ、北原白秋を師と仰いでいた。白秋もまた、この童謡集の序に「わたくしは最も親しい分身として、彼を世に推薦することを喜ぶ。」と書いたように、与田に大きな期待をよせていた。しかし、与田はその一方で白秋に代表される大正期童謡をのりこえるべく、新しい童謡の創造を志向し、その具体的なかたちとしてモダニズムへの接近があった。それは次の作品集『山羊と皿』(1940)に結実しているが、その萌芽は既にこの『旗・蜂・雲』の作品にも見受けられる。例えば「病気」「ミシン」「お馬の眼に」「白いベンチ」などの諸編にモダニズムの影響が明らかである。また、この童謡集には与田の代表作と言われる「鶴」「木鼠」をはじめ、「月を」「父」「雪を待つ」など、いわゆる《短詩型印象詩》のすぐれた作品も数多く収められている。以上の点から、『旗・蜂・雲』は童謡の文芸性が追求された昭和初期を代表する童謡集と言ってまちがいなかろう。
 なお挿絵は、前半の都会編に恩地孝四郎の抽象画が6点、後半の田園篇には棟方志功の写実画5点がそれぞれ挿入されている。また与田がみずから行ったシンプルな装幀と、あそび紙を用いるなどの本格的な造本により、ユニークな上製本が生れており、与田凖一がこの著作に寄せた格別の思いをうかがうことができる。
 1997年大空社より復刻版が出た。

[解題・書誌作成担当] 畑中圭一