函と表紙 本文 挿絵

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 三木露風(1889〜1964)の第一童謡集である。「序」には「ここに収めた七十五の謡は大正七年の六月から今年([大正十年]=引用者注)の六月までの三年間の作です。主として『赤い鳥』『こども雑誌』『少年倶楽部』『良友』『樫の実』等に発表しました。」と書かれている。
 1918年、『赤い鳥』創刊の折に、鈴木三重吉が三木露風に創作童謡の発表と投稿童謡の選を依頼したが、露風はこれを断ったというのはよく知られている事実である。しかし、選者は断ったが、露風は暫くの間『赤い鳥』に作品を寄せていた。だが、翌年からは『こども雑誌』と『良友』の童謡の選者をつとめ、自らの作品もこの両誌に発表しつづけた。この第一童謡集に『赤い鳥』『こども雑誌』『良友』の3誌に発表した作品が多いのはそのためである。
 この『真珠島』には、山田耕筰の曲を得て今日まで広く愛唱されてきた「赤蜻蛉」も収められている。しかし、三木露風の童謡はこうした抒情的なものとともに、みずみずしい感覚と想像力をはたらかせた象徴的な作品に特徴がある。象徴派の詩人として出発した露風は、西條八十と同じく「象徴詩としての童謡」を志向したのである。例えば「黄金の泉」「真珠島」「鶏頭の種子」「冬の花篭」などの作品にそれをうかがうことができる。初山滋の挿絵は、読者をそうした象徴的な世界に誘う魅力を湛えている。
 露風は序に「ほんたうの詩と異ならないものを易しい子供の言葉で」うたったものが童謡だと述べているが、その言葉通り、彼は当時の童謡詩人の中でもっとも純粋に詩としての童謡を追求したと言えよう。しかし、その純粋さゆえに、彼の書く童謡は地味で目立たないものが多く、また音楽的リズムに欠けるところもあったため、「赤蜻蛉」以外に歌われた童謡はほとんどないという結果に終わってしまった。
 1974年ほるぷ出版から復刻版が出た。

[解題・書誌作成担当] 畑中圭一