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 小説家であり、劇作家でもあった秋田雨雀(1883〜1962)がもっとも精力的に童話に取り組んだのは、1920年前後の数年である。『雨雀自伝』(新評論社、1953.09)の大正8年(1919年)の項には、「私はこの年から芸術の一様式としての童話を取り上げて見ようと考えた。私は娘の教育の材料として、トルストイの民話を読んでいるうちに、急に童話の魅力を感じはじめた。(中略)私はこの年、童話の試作として『旅人と提灯』を『早稲田文学』へ寄稿したが、二、三の評価をえたので、この年の内に、四五編の創作童話を書いて見た。」とある。
 雨雀は、「旅人と提灯」以前にも、『日本少年』『赤い鳥』などの児童雑誌に16編の作品を発表している。上記は、「芸術の一様式としての童話」に自覚的になったのが1919年ごろだというのだろう。「旅人と提灯」以降、毎月のように雑誌に童話を発表し、1921年には、『東の子供へ』(日本評論社)とこの『太陽と花園』の2冊の童話集にまとめている。
 『太陽と花園』には、9編の童話と1編の童話劇がおさめられているが、童話は、いずれも説話的な形式で書かれている。「太陽と花園」では、人々の意見に翻弄される菊畑の主人を描き、つぎの「白鳥の国」では、わざわざ子どもの白鳥たちの片目をつぶす親鳥を書く。このように、9編の童話は人間の愚かさを、しかし美しく描き出している。
 巻頭に置かれたエッセイ「永遠の子供―童話の成因に就いて―」には、「童話は形式としては、大人が児童に読ませるものであるが、もう一歩見方を拡げて考へると、大人が『大人自身の子供の性質』に読ませるもの、精しく言へば人類が人類自身の『永遠の子供』(エターナルチャイルドフード)に読ませる為に書くものだともいへる。“eternal childhood"―私達は実に永遠の子供なのである。」と書いている。童心主義の典型ともいえる発言だが、だとすれば、人間の愚かさを描いた作品群は、大人たちにむけて提出されたものなのである。1971年ほるぷ出版から復刻版が出た。

[解題・書誌作成担当] 宮川健郎