ジャケットと表紙 本文 挿絵

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 「愛子叢書」の特徴の一つに「現代文壇第一流の大家」の書き下ろしということが挙げられる。しかし、第5編『人形の望』の作者野上弥生子(1885〜1985)だけは当時にあってまだ大家とは言い難い。弥生子は夏目漱石の後援で作家として出発し、これが初めての書き下ろし単行本となる若い作家だったからだ。『少女の友』に載った「愛子叢書」の広告によると、師である漱石が書き手として予定されている。事情は不明だが、おそらく漱石の代理として弥生子は起用されたのだろう。『人形の望』は、この大抜擢に対する弥生子の意気込みが感じられる新鮮な作品だ。
 三人(体)の人形は持ち主にいずれは飽きられる己の運命を知り、人間と同じように霊魂を得て成長したいと、雛祭の晩にギリシアへと旅発つ。ギリシアではオリンポス神殿を訪ね、めでたく霊魂を与えられ、さらに神々からの贈り物として、智恵か美を選択する。まず、小さな人形が魔法の力でギリシア神話の世界に飛翔するという発想自体が壮大だ。作中にギリシア神話の題材が使われているのは、この前年に弥生子が『伝説の時代』を翻訳していたことによる。『伝説の時代』はギリシア・ローマ神話の本格的な邦訳の嚆矢であり、これを子どものための作品に生かした点も大きな特色である。この西洋的な世界に日本の伝統的な雛祭をも融合させた結果、『人形の望』は、ファンタジーとしても新鮮な少女小説となった。人形がそれぞれの個性をもち、このようにいきいきと活躍する作品は当時の日本ではまだまだ珍しかっただけに、その存在価値は大きい。
 結末で三人は霊魂の他にオリンポスの神々からそれぞれ贈り物を選ぶことになるが、主人公の日本人形は美よりも智恵を選ぶ。性差に縛られた時代だからこそ、「男でも女でも智恵は何よりも尊い」との主張は鮮烈で、当時「青鞜」に寄稿していた弥生子らしい。一方で成長を拒否し享楽に生きた人形は悲劇的な最期を迎える。この描写は残酷なまでに生々しく、読者が少女だからといった加減の一切ないことは、作者の作家としての誠実さの表れだろう。また、女性が人としてどう生きるか、というテーマを本作で描いたことは、作家野上弥生子の初期作品としても注目できるのである。
 『めぐりあひ』(1922年改版)の巻末に改版の「愛子叢書」の広告があるが、詳細は不明で、改版『人形の望』は現段階では確認できていない。1974年ほるぷ出版から復刻版が出た。

[解題・書誌作成担当] 小野由紀