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 1900年当時、政府が子どもの読物に何を求めていたかを示したのが本書である。国定教科書『尋常小学読本』(1910〜1917)編纂にあたり、軍事強化と資本主義経済の伸張を標榜する日露戦争後の政府の意向を踏まえた新教材を発掘すべく、1906年文部大臣官房図書課が、高等小学校読本教材として各府県を通じて教育界を対象に作品を懸賞募集した。「緒言」によれば、選者は、巌谷季雄(小波)、芳賀矢一、上田萬年、幸田成行(露伴)他3名があたり、14編が選出され、巌谷の修正が施され、本書に収録されたという。選者芳賀矢一は国語読本の編纂、起草委員でもあり、巌谷も嘱託の助力者であった。
 各話の最初に多色刷りの口絵が添えられた美装本。同年12月には並製本版が刊行され普及が図られた。書名の「仮作物語」はfictionの訳語として明治30年代使用されていたと、滑川道夫の指摘がある。国語教科書そのものの内実を模索する時代の申し子である。
 当選者の多くは教職者で、東京高師付属小学校訓導であった芦田恵之助の「小園長」、若き日の童謡詩人葛原シゲルの「花野原」、長野県下教職者であった久保田俊彦(島木赤彦)の「小移住者」、同県下小学校長であった市川鉄太郎の「兄弟喧嘩」、島根県下小学校長であった奥原福市の「白銅貨物語」など、時勢に即応した教訓話であった。
 かれらに混じって、東京朝日新聞社入社後、長編歴史小説作家として活躍し、「金港堂お伽噺」や雑誌『少年』には、教訓色の勝った子ども向けお伽噺を多く発表していたプロの武田仰天子が、本名武田頴で応募している。仰天子の「競馬」は、近隣5村の統治権をめぐって、それぞれ少年騎手を出し合い競馬で決するという神事の渦中、同点決勝となった二人の少年のうち、一人が落馬し池に落ちたところ、勝負を度外視して相手方の少年が助け出すという美談である。1910年『尋常小学読本』に採用されて以来、32年まで計3読本にわたり教材化され、定番教材のひとつとなった。
 芦田恵之助作「小園長」は、過疎化していく村の農作に生涯を捧げようと決意するに至る少年を丁寧に描き、卒業式の学校長の賛辞をはなむけとしながらも、なお迷うことの多いであろう少年の人生を思わせて結ばれている。
 1974年、ほるぷ出版から復刻版が出た。

[解題・書誌作成担当] 松山雅子