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 家庭において小学生に国の歴史を教えて「忠孝節義の風」「緒言」を養わせようと、新進国文学者小中村義象(1864〜1923)と落合直文(1861〜1903)が企画した人物史風な歴史物語。  義象はこの前年大倉書店から元寇の戦いを述べた少年向歴史読物『筑紫のあだ波』を上梓し、志を同じくする直文と叢書刊行の計画を練っていた。折しも二人の主張を支援するように教育に関する勅語が公布されたため、博文館に企画を持ち掛けた。同社では社会及び教育界の動向を見通した上、叢書「少年文学」とほぼ並行する形で出版することにした。その発行意図は冒頭に勅語を朱書して掲げたところに明示されている。  「能褒野の露」は天皇の命ずるままに十代から西へ東へと戦い続けた日本武尊の短い生涯を、「裾野の嵐」は幼い頃から亡き父の仇討を志した曽我兄弟が遂にその目的を達成するまでを、讃美溢れんばかりの強烈な詠歎調で述べてある。著者の思いの激しさは、傍点を付した力説個所の多いことからも察しられる。  刊行時の反響は、「国民之友」が、文章が国学者の悪癖を模倣した死文で、内容も「今日の思想に適せざるもの」だから、世人も愛読はしないだろう(高橋五郎)と否定的だったのに対し、「東京中新聞」は、子どもの読物に「忠孝義烈の著述」が乏しい昨今、「この無垢なる歴史読本」は「文章の簡潔なる叙事の明晰なる、趣向の清浄なる、恰も是万緑叢中紅一点!」と激賞した。その後高橋五郎も、本叢書第二編が出ると、「勅語の御主意を奉戴し」た適切な読物と評価、他紙と歩調を揃えた。その背景には国粋主義強化傾向にある世潮があった。  本叢書全12巻は翌年10月に完結するが、日清・日露戦争へとつながる国の歩みと連動する形で、本叢書の続編『新撰日本外史』をはじめ、博文館のみならず各社から少年少女向の平易な歴史読物が次々と登場し、明らかにブームとなった。  初版部数は不明。第三版から表紙の絵を変更、勅語も掲載しなくなった。1897年叢書全12冊を3冊ずつまとめて別書名の合本として刊行、本編を含む『花の白雲』は1915年34版に達した。

[解題・書誌作成担当] 勝尾金弥