表紙 本文 挿絵

(画像をクリックすると大きな画像をご覧いただけます)
 子どもの読物としては、知識読物の多かった時期に文芸的読物を提供した点と、従来の桃太郎、猿蟹合戦などの昔話に代えて、外国(アメリカ)の物語を紹介した点に意義が認められる。  今井史山(1831〜1885)は、江戸生れだが、紀州加太の医家に養子として迎えられた人物で、他に『理学字解』(1875年)などの編著がある。医業のかたわら漢籍を教授したといい、こうした教育への関心が、子どものために教訓的読物を著した背景にあったのかもしれない。
 「自序」に、「亜米利加出版の「リートル」を閲するにむかしむかしの物語に類する小説あり」と、「リートル」(「reader」であろうか)に拠ったことが明らかにされている。明治初期には、欧米の教科書がそのまま日本でも英語教科書として使われていたが、教材として、教訓的な小話が収録されていることが多かった。また、欧米の修身の教科書にも小話が掲載されいるものがあり、これも日本に紹介されていた。  本書の目的は、「小学に入までの教導の一助」とするためであったから、修身のための読物のひとつと考えることもできる。教訓的小話を「西洋童話」と名付けるところに読物としての意識がうかがえるようであるが、当代は、教訓と読物とが不可分だったことを考えると、「童話」に、現在意味するような文芸性は含まれていなかったように思われる。小学校以前の幼児の訓育というはっきりした意識がうかがえるのは、本書の発売に先立つ2年前の1872年に学制が発布され、小学校以上の教育が公のものになったからであろう。
 「読易からん為画入ひらかなになしぬれは」云々とあるところから絵を入れた意図は、明らかである。絵は、原著にあったものを写したかにみえるが、稚拙である。読み易いという点では、難しい語句の右に通常のよみ、左に意味をルビでふるという工夫もみられるから、子ども自身が読むことを想定していたと思われる。  なお発行日の1874年1月は「発売」日であり、「官許」は1873年6月となっている。

[解題・書誌作成担当] 藤本芳則